R2.9 曼殊沙華にまつわるエピソード

 秋のお彼岸の頃、季節の風物詩として必ずテレビに映し出されるのが、大崎市羽黒山公園の赤い彼岸花です。地域の人たちが植え、そして地道に増やし続けてきた結果、今では見事な彼岸花の名勝地となっています。
 そこで、船岡城址公園を赤い彼岸花で染め上げたら何かと話題となるのではないかと思い、すでに、船岡土手内地区の皆さんと一緒に、白石川の土手に彼岸花を植えていた庄子さんに声がけをしたところです。
 庄子さんたちには、快く賛同していただき、2013年から毎年ボランティアで彼岸花を植えていただいています。現在、公園には約30万本の彼岸花が見事に咲くようになりました。特に、彼岸花で富士山をかたどった「赤富士」は見応えがあり、大変好評です。
 当初、彼岸花祭りの開催を提案した折には、お年寄りの皆さんから、「公園にお墓の花を植えてどうする」とお叱りを受けました。その発言の裏には、彼岸花にまつわる迷信がありました。
 昔、土葬が行われていた頃、ご遺体をネズミやモグラから守るために、お墓の周りには毒性の強い彼岸花が植えられました。そうした風習から、信心深いお年寄りの皆さんには、彼岸花は「死に関わる不吉な花」というイメージがついて回っているのだろうと思います。
 反面、彼岸花は別名「曼殊沙華」とも呼ばれ、天界に咲く妖艶な花として女性に大変人気があります。花言葉は「情熱」です。「愛されるより愛していたい」、「思うのはあなた一人」と、一途な女心を歌った山口百恵さんの「曼殊沙華」は、彼女にとって、伝説の名唱となっています。
 昨年、八戸市から船岡城址公園を訪れていた若い女性から、「初めて本物の彼岸花を見て感激しました」と、お褒めの言葉をいただきました。実は、自生する彼岸花の北限は、秋田県や岩手県までなので、青森県では咲かないそうです。そのためか、東日本で有名な彼岸花の観光地は、埼玉県日高市の巾着田や幸手市の権現堂となっており、満開時には、真っ赤な絶景を見に、多くの観光客が訪れています。
 今後、町としては、さらに彼岸花を増やし、真っ赤な絨毯を広げたように咲き誇る幻想的な景観を作り出せば、全国からお客さまを呼び込めるのではないかと思っています。燃え立つように染まった船岡城址公園の美しい彼岸花を見て、彼岸花にまつわる「不吉な花」のイメージを払拭して、心を癒していただければと思います。

                                              柴田町長 滝口 茂

R2.8 祭りへの想い

 新型コロナウイルス感染症防止の観点から、「仙台七夕まつり」をはじめ、東北の三大夏祭りが中止になってしまいました。東北人が持つ内に秘めたパワーや熱気を表現する機会を失い、とても残念です。
 日本の祭りの起源は、崇高な神々に供物や感謝の念を捧げたことにあるようです。日本には四季折々にさまざまな祭りが数多く行われています。その中でも日本の三大祭りと称されているのが、平安の世から続く王朝文化を伝える京都の八坂神社の「祇園祭」、徳川家康の支援で始まった東京の神田明神の「神田祭」、そして菅原道真を祀る大阪天満宮の「天神祭」です。山鉾巡行や祇園囃子、神楽や山車は、日本人はもとより、外国人の心も魅了しています。
 一方、地方においても自然の恵みに感謝し、みんなでその恵みを分かち合い、生きることを共に喜び合う鎮守の祭りが、各地で盛んに行われてきました。
 私の幼い頃の思い出の中にも、すっきりと澄み上がった秋空の下、お羽山(太陽の村の東側)に登り、神殿脇で振る舞われた温かい柚子湯を飲んだ記憶が心地よく残っています。
 町長になってからも、地域の夏祭りや盆踊り大会にお呼ばれしていますが、そこには帰省した子どもたちや孫たちのはしゃぐ姿、幼なじみ同士の思い出話などがあふれ、日頃は静まり返っている古里にもにぎわいが戻っていました。地域のお祭りは、地域のコミュニティ形成には、無くてはならないものです。
 しかし、近年各地において、地域から若者が流出し、神楽を踊る人やおみこしを担ぐ人がいなくなってしまいました。さらに日本人の心の中から神や自然に対する畏敬の念が薄れてきたこともあり、伝統的な祭りにおいては、その継承が危うくなっています。そのため、祭りの熱気が消えた古里は荒廃するばかりです。祭りを続けられるかどうかは、まさに地域の活力のバロメーター。今後ますます、伝統的な祭りや地域の祭りを続けていくことが困難となっていく時代を迎え、どのように古里を活気づけていけばよいのか頭の痛いところです。今のところ、これといった名案はないのですが、ここは、日本人の原点に帰って、未来を担う子どもたちに祭りの楽しさや意義や由来を地道に伝え、古里への想いを育てていくしか道はないのではないかと思います。
 今必要なのは、地域のみんなで祭りを復活させることです。

                                              柴田町長 滝口 茂

R2.7 体験的公務員論

 今月で、県庁時代を含めた地方公務員生活が46年目を迎えることになりました。
 私が県庁に勤めた昭和49年は、まさに高度成長時代の真っただ中でした。国土の均衡ある発展とナショナルミニマムの達成を目指して、国が全国総合開発計画を立て、地方に高速道路や新幹線、住宅や産業基盤などの社会資本整備が一気に進展した時代でした。国が主導し、地方が下請機関となった中央集権体制による画一的な開発が功を奏し、地方は飛躍的な経済発展の恩恵に浴することができました。
 その当時、私たち地方公務員に求められた能力とは、国が示す法律や補助要綱を的確に解釈し、政策や許認可を厳格に執行することでした。そうした役所主導による仕事ぶりが、結果として住民に対する「由らしむべし、知らしむべからず」といった、お上意識を役所内にまん延させる一方で、住民も、なんでもかんでも役所や政治家に頼もうとする、いわゆる「おねだり民主主義」が当たり前となる風潮を生み出してしまいました。
 しかし、こうした風潮は、その後の経済の高度成長によって、一人一人の生活が豊かになると大きく変化し、住民はNPOなどを立ち上げ、公益的な活動や主体的にまちづくりに関わるようになってきました。半面、お上による中央集権体制は、多様化する生活スタイルに対応できず、行き詰まりを見せるようになってしまいました。
 まさに、まちづくりの主役の交代です。
 そうした新たな時代の芽吹きの中で話題となったのが、昭和54年、当時の大分県の平松守彦知事が提唱した「一村一品運動」でした。「桃栗植えてハワイへ行こう」というスローガンはとても新鮮で、当時、地域産業振興の最前線で働いていた私にも、強烈なインパクトをもたらしました。その時ほど、地方の時代の幕明けを肌で感じたことはありませんでした。
 しかし、その地方の時代も今は昔。地方は人口減少や高齢化の進展により、地域や集落が崩壊しかねない危機に直面しています。これまでに経験したことのない時代の変化の中で、職員が昨年と同じことや他の自治体との横並びの仕事ぶりのままでは、おそらく町の将来は、現状維持どころか後退を余儀なくされてしまうことになりかねません。
 そうならないよう、AIなどの最新テクノロジーを活用した、便利な社会の実現に向けた動きに素早く反応し、自分の考えで、主体的に行動できる職員をいかに育てていくかが、地方公務員の先輩としての私の責務ではないかと考えています。

                                              柴田町長 滝口 茂

R2.6  信玄公の水害対策に学ぶ

 梅雨に入り、また、台風の到来に緊張感を強いられる季節となりました。
 古くから政治の要諦として、「水を治めるものは、国を治める」といわれています。この格言は、暴れ川を治水工事によって治め、新田を開発することで、国を豊かにしてきたことに由来しているようです。
 今から400年ほど前、武田信玄によって釜(かま)無(なし)川と御勅使(みだい)川との合流地点に造られたのが、あの有名な「信玄堤」です。堤防を不連続に造り、洪水の際にはあえて水を溢れさせ、洪水のエネルギーを分散させることで、被害をなるべく少なくする工法でした。
 一方、現在の治水の工法は、堤防を高く嵩上げしたり、コンクリートで護岸を補強し、川の中に水を封じ込める考え方ですので、信玄公の考え方とは全なっています。
 柴田町も、白石川と阿武隈川の合流点を抱えているため、水害に対しては、地形的にも地盤的にも脆弱で、古来、水害に悩まされてきました。
 そのため、歴代の首長の最大の関心事は、いかに水害から地域住民を守るかでした。これまでに、槻木四日市場や三名生堀、船岡五間堀への排水機場の整備をはじめ、槻木五間堀の改修や阿武隈川の完成堤防に向けた陳情などに奔走してこられました。私も、局地的に冠水する地域の水害対策を最優先に行ってきたところです。
 しかし、昨年の台風19号のように、短時間に記録的な大雨が降る場合、治水構造物で人の命を守ることには、おのずと限界があることを思い知らされました。近年の異常気象の下では、従来の考え方を根本的に改め、大洪水は必ず発生するとの前提に立った対応が必要です。いざという時には、「自分の命は自分で守る」といった、「水防災意識の向上」を図っていかなければならないと思います。
 まずは、全戸配布した防災マップを活用し、日常から洪水や土砂災害への備えを強化していただくとともに、マイタイムラインを作成し、災害時に自分や地域が取るべき避難行動について、時系列的に整理しておくことが大切です。
 今こそ、地域全体で水防災を常に意識した社会づくりへの取り組みが求められているときはありません。戦国時代、あの手この手を使って、洪水への領民の関心を薄れさせず、また信玄堤や聖牛、将棋頭など、独創的な治水技術を工夫して水害から領民を守った、我が国の治水の祖である信玄公に学び、台風の到来に備えたいと思います。

                                              柴田町長 滝口 茂

R2.5  静寂の中での桜模様

 新型コロナウィルスの影響で、4月の桜まつりは中止とし、観光物産交流館さくらの里も臨時休業の措置を取りました。それでも、残雪を抱いた蔵王連峰と、鮮やかなピンク色に染まった一目千本桜の絶景を静寂の中で堪能する方もいました。

 この絶景を彩る「東北本線 大河原駅~船岡駅間」は、3月26日、日本経済新聞の「NIKKEIプラス1」創刊20周年特別企画「桜を楽しめる鉄道路線」において、全国の鉄道路線の中でも、桜の規模感が他を圧倒しているということで第一位となり、紹介されました。このことが、お花見の自粛をお願いしたにもかかわらず、観光客や鉄道カメラマンが減らなかった要因だったように思えます。
 こうした動きは、これまで「花の町柴田」を核としたプロモーション活動に力を入れ、柴田町の好感度が上がったからにほかなりません。また、副次的な効果として、柴田町を応援する「ふるさと納税」が、昨年度は6億9千万円余りとなるなどの好循環も生んでいます。
 桜の開花は、国民的な関心事で、私たちも毎日、仙台管区気象台の開花情報に一喜一憂しています。今年のソメイヨシノは、観測史上最も早い3月28日に開花し、その後、次々と花便りが報道されました。
 白石川堤や船岡城址公園もソメイヨシノが咲いている間は、多くの観光客が花見に訪れます。しかし、桜前線が仙台、涌谷そして岩手県へと北上するにつれて、白石川堤の一目千本桜は、「散り始め」、「花吹雪」と報道されるため、たとえ遅咲きの山桜や里桜が見事に咲いていても、花見に訪れるのは旅行日程が決まっている外国人だけで、日本人の姿はほとんど見られなくなってしまいます。
 こうしたミスマッチを防ぎ、4月いっぱいは柴田町の花見が楽しめるよう、今回、早咲きの小彼岸桜やおかめ桜、遅咲きの大山桜や里桜を植栽しました。さらに、ハナモモやレンギョウ、ユキヤナギ、スイセンなどを植え、他の桜の名所とは違った、春の装いを演出することにも努めました。
 柴田町の桜は、100年前に先人たちが町の誇りとなるように植えたものです。今を生きている私たちの責務は、この桜を愛でながら、桜並木の絶景にさらに磨きをかけ、次の世代に引き継いでいくことではないかと思っています。
 新型コロナウィルスが早く終息し、来年こそは多くの人に、この桜並木の絶景を楽しんでもらいたいと思っています。

 

                                             柴田町長 滝口 茂