40年の足跡

船岡町と槻木町が合併、柴田町が誕生

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地 方自治法制定後、地方自治体の事務や権限が拡大され、能率的な事務処理、交通機関や工業の発達による住民の生活圏の拡大、それに伴う住民への合理的、能率 的な施策を行うために、基礎的自治体である市町村の事務を再配分する事を前提とした新体制づくりが望まれ、昭和28年9月、町村合併促進法が分布された。 県でも「宮城県町村合併促進基本計画」を作成し、新町設計の大勢を示し、合併推進に向けて動き出した。

県合併計画では、柴田郡を3ブロックに統合する計画。それを受けて柴田郡の各町村でも調査研究が続けられた。さまざまな検討の末、船岡町と槻木町の合併に 向けての動きが本格化。合併促進協議会規約に基づいて合併促進協議会を設立。会長に柴田倫之助氏を選出し、26人の委員により新町建設に向け、大きな一歩 を踏み出した。

合併促進協議会は、新町建設計画の基本方針を、「柴田町は、合併により行財政を強化しながら自治の確立を図るとともに、産業の振興を協力に推進し、商工業 の発展と工場の誘致を図り、もって住民の福祉を増進し健全かつ平和にして民主的な文化新町の建設を図るものとする」と定め、新町名を「柴田町」とした。

この名称にした理由は、「柴田」が『延喜式』 『和名抄』 などの古書に見える地名で、陸奥国の古くからの郡名。有史以前から旧船岡領館山を根拠地とした 豪族がこの地方一帯を支配したらしく、旧藩政時代にここに居城を営んだ柴田氏が伊達家重臣として著名であったこと。今、合併した地域は、柴田郡の東端、東 北本線に沿う地帯で、この地域を呼称する名称は、歴史的・地理的・社会的にも『柴田町』以上に適切な名称はありえない。また、「住民一般の自然に要望する ところである」として命名した。

合併促進協議会が協定に合意したのを受けて、船岡と槻木両町では昭和31年3月22日、それぞれ町議会を開き、合併を議決。同日、合併調印式が行われ、4月1日に柴田町が誕生した。