小説に記された、「柴田」、激動の軌跡

.郷土の直木賞作家である大池唯雄(小池忠雄)は、明治41年10月30日に小池林治の長男として柴田郡船岡町に生まれた。大正10年、仙台第二中学校に入学。授業の中で「神の心」という作文を書き、教官に非凡なる文学的才能を認められ、作家になるよう勧められる。その後、旧制第二高等学校文科甲類を経て、東北帝国大学法文学部国史科に入学するが、大池は作家で身を立てることを決意し、大学を中退。学内図書館で研鑽を積む。

大池が書く作品は、幕末や明治維新など、歴史に題材を求めた短編がほとんど。それは、「売れる作品より残る作品を」という大池の強い意志が貫かれているからで、綿密な時代考証を踏まえた珠玉の作品が多い。

昭和12年上半期の「サンデー毎日」懸賞小説に「おらんだ楽兵」を出展し、入選。翌昭和12年、戊辰の役を舞台に、大池の母方の祖父とその兄弟を主人公とした作品「秋田口の兄弟」を発表し、第8回直木賞を受賞。その後も文藝朝日の戯曲募集に応募した「原田家の人びと」は首位当選。晩年作の「炎の時代」は、大池の集大成ともいわれる作品である。

.大池は直木賞受賞前から作家大仏次郎氏の知遇を得、上京して創作活動に励むように勧められていたが、一貫して仙台に留まり、昭和20年、空襲のため柴田町に疎開後は、執筆活動のかたわら、社会教育にも力を注ぎ、槻木公民館長、柴田町公民館長などを歴任。船岡中学校校歌の作詞も手掛けた。

昭和45年、NHKで「樅ノ木は残った」がテレビ放映されると、船岡は「樅の木ブーム」で沸き返った。寛文事件を調べるために来町した山本周五郎氏の調査に協力した大池のもとには、講演や原稿依頼が相次ぎ、多忙を極めた。

昭和45年5月27日、大池は突然、急性心不全で倒れ、意識が戻らぬまま61歳の生涯を閉じる。昭和58年、船岡城址公園内に船出会(第6回船岡中学校卒業生)によって、大池の「城中井戸の歌」が刻まれた記念碑が建立された。郷土を愛した大池唯雄を、永く顕彰している。