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柴田町の風景

 今月の風景

柴田町の風景
2月

 厳寒の白石川を訪れる美しい訪問客は、シベリ
アから飛来する白鳥たちです。河畔に悠然と翼を
休め、見る人の心をあたためてくれます。
 この地域では、古くから白鳥は神の使いと信じ
られてきました。白鳥にまつわる伝承事として"白
鳥事件"という悲劇が語り継がれています。戊申
戦争後、官軍兵士たちが白鳥を捕殺し、激高した
柴田家藩士が発砲、当事者たちと共に、領主柴
田意広も責を負って命を落とした悲しい事件です。
地元の人々が白石川の白鳥に特別な愛情を抱く
のも、こんな歴史があればこそなのでしょうか。


明治20年代まで、船岡には大沼など6つの沼があり、秋になるとたくさんの白鳥が飛んで来て、その美しい姿を水面にうつしていました。人々は、子どものころから白鳥は神の使いであると教えられ、たいそうあがめていました。
戊辰の役(明治元年、1868)に負けた仙台藩に官軍がやって来たのは、9月のこと。官軍の兵士たちの勝手なふるまいに、人々の心は暗くしずんでいきました。

そうしているうちに、官軍の兵士たちは、あろうことか白鳥を鉄砲でうち、稲抗(くい)でなぐり殺し始めたのです。"神様の使いである白鳥様になんてことをするだ。今にきっとバチがあたるにちがいねえ"と人々の誰もが思いましたが、どうすることもできません。やめてくださいという嘆願にも耳をかしてもらえませんでした。白鳥たちも白いからだを悲しみにふるわせて、毎日おびえているように見えました。

そして運命の10月28日、とうとうおそれていたことがおきたのです。柴田家の家臣小松亀之進、森玉蔵、島貫豊之進、森良治の4人が横橋の用水路で雑魚をとっていると、鉄砲の音が数発聞こえてきました。"また、白鳥様をうってやがる"と直感し、いよいよがまんできなくなった4人は官軍の兵士たちをやっつける決心をし、亀之進と玉蔵が神次郎村のある家から鉄砲をかり、沼の方へと走りました。

2人が兵士たちを発見したとき、彼らはすでに小坂舟場から舟に乗り、川の中ほどのところにいました。玉蔵は思いきって彼らに向けて引き金を引きました。バーン。弾は兵士にはあたらず、舟べりにあたりました。
このことはその日のうちに広まりました。お役人にもすぐ報告され、仙台藩に犯人の引き渡しが要求されたのです。

亀之進と玉蔵はとらえられ、玉蔵は仙台へつれて行かれる途中ににげました。亀之進は牢(ろう)に入れられました。柴田意広(もとひろ)も家臣の責任をとり、涌谷(わくや)伊達家にお預りとなりました。
そして11月4日。意広は切腹(せっぷく)、亀之進は首をきられ、玉蔵の身代りに義兄の森文治の首もきられたのです。その玉蔵も翌年つかまり、大森馬の沢で処刑されたということです。

それ以来白鳥をいじめる者もいなくなり、また沼に平和がもどってきました。けれど、白鳥たちをまもるために戦った家臣の命は、もうもどってきません。人々は、家臣たちの勇気を決して忘れまいと思いました。この事件は白鳥事件とよばれ、今も語りつがれています。










 
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